日本での仕事

大学を卒業してから10年近く塾で教えていた。もっとチャレンジングな仕事をしたいという気持ちは日々に強まり、悶々として楽しまなかった。 そのようなときに高校時代の後輩から外国人に日本語を教えてみないかと誘われた。1986年のことである。後輩が勤務し…

台湾での仕事

台湾の勤務は1990年から1992年まで。生まれて初めての海外生活だった。私は台北の日本語学校、東橋日語で教務主任をした。私の妻も同じ学校で日本語を教えた。東橋日語は補習班と呼ばれる塾で、学校法人による経営ではなかった。東橋日語は東京都北区のある…

パプアニューギニアでの仕事

パプアニューギニア(PNG)への赴任は1992年から1994年まで。JICA専門家として、首都ポートモレスビーから40キロ離れたジャングルの中にあるソゲリ国立高校に日本語教師として赴任した。 熱帯への赴任と聞いて、プールサイドのデッキチェアに横たわり、指を…

韓国での仕事

韓国で仕事をしたのは1995年。高麗大学商学部でつなぎの講師として半年ほど赴任した。日本に帰ってうちに着き、テレビをつけたら江南のデパートが崩壊したというニュースをやっていた。もし、私がその日に帰国せず、まだソウルに滞在していたら、家族はとて…

ブルネイでの仕事

ブルネイにいたのは1995年から1999年まで。国際交流基金派遣の日本語教育専門家として在ブルネイ日本国大使館付属日本語講座の運営を任された。日本大使館の1室を執務室としてもらい、そこで授業の準備などの業務をした。大使館講座の授業は夜7時から9時まで…

エジプトでの仕事

エジプトにいたのは2000年から2003年まで。日本語専門家として国際交流基金カイロ事務所で働いた。事務所付きの専門家としてエジプト及び近隣国の日本語教育の活性化支援に従事した。そのため、周辺国に出張を繰り返した。出張した国は、モロッコ、チュニジ…

カザフスタンでの仕事

カザフスタン国アルマティ市で仕事をしたのは2004年から2007年まで。国際交流基金とJICAが共同で運営するカザフスタン日本人材開発センターの日本語教育部門を統括した。 ここでの一番大きい仕事は首都のアスタナで日本語教育講座を立ち上げたこと。場所の選…

ロシアでの仕事

モスクワは国際交流基金での最後の任地だった。赴任したのは2010年から2013年まで。 ロシア各地、および周辺国の日本語教育の活性化支援が主な業務であったので、本当にいろいろなところに出張した。それを改めてリスト化したのが次。ロシア以外の都市に出張…

ピラミッド

富士山が見えれば嬉しいように、カイロで思わぬ方向にピラミッドが見えると嬉しくなる

麻疹と挫折は…

高麗大学 高麗大学で ソウルで仕事をしていたとき、私といっしょに仕事をした人がいた。その人は私の元教え子で、家族ぐるみの付き合いがあった。 その人のご主人は、両班の由緒正しい家柄に生まれ、本人もたいへん有能な人で、それまでの人生はずっと順風満…

馬に揺られて無名峰登頂

アルマティの南には4000m級の山々を擁するザイリスキーアラタウ山脈がそびえている。私は週末よくこれらの山に登った。高山病に耐えながら岸壁を攀じ登るハードな登山であった。でも、たまに低い山でハイキングをすることもあった。 ある日、私はアルマティ…

スキー場で

ときどきスキー場でリフトから降りそこなって醜態をさらしているスキーヤーがいる。そういうのを見るたびに、ばかな奴めと心の中で嘲笑していた。私は、ベテランのスキーヤーだから、あんなばかなことは絶対しないと固く信じていた。 ところが… カザフスタン…

校長の唾

学生の悪事が露見したとき、ソゲリ国立高校のJohn Colwell校長は荒れ狂った。 先生たちと話すとき、彼はもっと物静かだった。 あるとき、彼と話していて、彼の唾のほんの小さな飛沫が私の唇に飛んできた。校長もそれに気づいていて、ちょっと慌てて飛沫の行…

海外におけるネイティブ教師、ノンネイティブ日本語教師の役割

2021年の国際交流基金の調査によれば、海外で教える日本語教師74,592人中、61381人(82%)がノンネイティブ教師(NNT)、ネイティブ教師(NT)が13211人である。ここでは海外の日本語教育におけるNT、NNTの一般的な役割について考える。 教員に必要な属性 …

ここはカイロじゃない!

カイロからヨルダンのアンマンとシリアのダマスカス、アレッポに出張したことがある。 ヨルダンではヨルダン大学、シリアではダマスカス大学とアレッポ大学の日本語教育機関を訪ねた。 だまされないよう、ぼられないよう、いつもぴりぴりしていなければなら…

寝坊して飛行機の乗り遅れる!

バハレーン大学の女子学生たち エジプトからイランに出張しての帰り、トランジットでバハレーンに1泊した。最後の夜ということでバハレーン大学の日本人教員と酒を飲み、酔っ払ってホテルに帰って寝た。 翌朝、起きると10時20分。フライトは11時20分だからあ…

イラン国立博物館

イランのテヘランに出張したとき、心に残ることがある。 ペルセポリスの展示が充実している国立博物館を時間の都合をつけてぜひ訪問したいと思った。イランに来ることは二度とないと思ったからだ。ところが、時間が取れず、結局、訪問を諦めた。 私はイラン…

フライトがない!

エジプトに赴任していたとき、ほぼ2年ぶりで日本に一時帰国することになった。フライトはルフトハンザ。フランクフルト経由で東京へ帰るようになっていた。カイロは朝4時発。私は午前2時過ぎに空港に来た。 航空会社のカウンターの入口でチケットを見せると…

マルワ

エジプトでは、本来の仕事のほか、週に一度ある大学の外国語学部日本語学科に出講していた。 その学部はエジプトの大学の中で最難関の一つで、特に日本語学科は、その中でも一番難しかった。だから、そこで日本語を学ぶ学生は文科系ではエジプトのthe cream …

カイロの安食堂

カイロで仕事をしていたとき、とても面白い男と知り合いになった。名前を仮に佐々木とする。佐々木は、バックパッカーの沈没組で、それまでも世界各地で生活していた。インドネシア語、中国語なども流暢に話した。生活しながら自然習得したらしい。アラビア…

N先生

N先生はロシアを代表する日本学者である。私は、博覧強記の同教授に深い敬意を払った。 あるとき、私はN先生が行った講義の直後に教室に入った。私の顔を見て、N先生は黒板の日本語を消し始めた。最初はなにも考えなかったが、N先生が困ったような表情を浮か…

カザフスタンのいなか

草競馬 私が住んでいたアルマティから北東へ450キロくらい行ったところにSarkandという小さな町がある。ここ出身の学生がいて、帰郷するときいっしょに来ないかと誘われた。もちろん喜んで誘いに乗った。Sarkandまでは車で5時間くらいかかった。5月のステ…

シナイ半島へ

カイロに駐在していたとき、何回かシナイ半島に出かけた。シナイ半島の入口、スエズ運河まで車で3時間くらい。運河の下に作られた短いトンネルの向うがシナイ半島である。 カイロからスエズ運河に行く道は実にわかりにくい。というか、カイロ市内でスエズ街…

バハレーヤとミハルさん

カイロから南南西の方角に350km行った砂漠のど真ん中にバハレーヤという大きなオアシスがある。人口数千人の大きなオアシスでローマ時代の遺跡が残っている。こんなところに2000年も前から人が住んでいたのだ。 距離は350kmもあるが、私のカムリでは3時間で…

エジプトの「ビール」

カイロは、1年に20分しか雨が降らないのに、けっこう蒸し暑いところだ。6月から10月くらいまでは東京の真夏のような暑さが続く。 次に書くのは、エジプトに赴任して間もなく、まだ右も左もわからなかった頃の話である。カイロへの赴任し、最初に住んだのは、…

カザフスタンの警官

カザフスタンの警官は安月給である。ワイロがないと生活できない。だから、鵜の目鷹の目で金をせびるチャンスを狙っている。 カザフスタンに到着して数日後、私は買い物をするためにホテルを出た。ホテルの前を歩いていると警官が二人パトカーから降りてきて…

冬の靴底の滑り止め

冬のアルマティ ヤクトラックス 冬のアルマティは気温がマイナス20度くらいまで下がる。だから、一度雪が降るとそれが根雪となり、2ヶ月ほどは全市がスケート場になる。カザフ人の若い人たちは凍りついた歩道を、ふつうの靴でスタスタと歩いていくが、私はそ…

カザフスタンにおけるあいさつとしてのキス&ハグ

カザフスタンの至る所で老若男女が親しげにキスしたり、ハグしたりする光景が、毎日何千回も何万回も繰り広げられている。 私も、あれをやってみたいなと思ったが、場違いなところで場違いなことをやってセクハラと言われてはたまらないと思い、まずは観察に…

ロシアの日本語教育

ロシアの日本語教育はモスクワ、サンクトペテルブルク、ノボシビルスク、ウラジオストクを中心として広い領土に散在する各都市で基本的には大学の日本語学科で教えられているが、ペルミ、エカテリンブルグなどは例外である。 ロシアの学校は何を教えるかにつ…

恋愛と打算

06年8月、私は家内とウズベキスタンを旅行した。このとき私はカザフスタンのアルマティで仕事をしていたので、アルマティから空路タシケントへ入った。 私は観光旅行では必ず日本語のガイドを雇う。日本語を勉強した人に少しだけでも貢献したいという気持ち…