ロシアの日本語教育

ロシアの日本語教育はモスクワ、サンクトペテルブルクノボシビルスクウラジオストクを中心として広い領土に散在する各都市で基本的には大学の日本語学科で教えられているが、ペルミ、エカテリンブルグなどは例外である。

ロシアの学校は何を教えるかについて校長に大きな裁量が与えられている。ペルミ市立第2ギムナジヤのリュドミラ・スハノワ校長は初等教育からアジア諸語を教える必要性を認め、カリキュラムに日本語を導入した。私の在勤時は元モスクワ日本人学校のM教諭と千葉の日本語学校が派遣した教員が教えていたが、後者は教え方を巡って大きなストレスを抱えていた。

それは当然のことだ。大人に教えるのと子供に教えるのでは教え方が全然ちがう。子供に教えるときには、教室における規律維持のため、教員は学習者の母語と日本語のバイリンガルでなければならない。もちろん成人を教える場合も教員がバイリンガルであるに越したことはないが、子供に教える場合と切迫度が違う。

もう一つの違いは、子供に教える場合、教授内容をいつも「お遊び」の要素でくるまなければならないことである。成人クラス対象の教授法の訓練を受けた人はこのような訓練を受けていない。前述の教員がストレスを抱えるのもむべなるかな。

私はM教諭と密接に連絡を取り、新しく仕入れた教え方を伝え、実地で試してもらって、フィードバックをもらった。教育実践に関わる者にとって、それはとても幸せな時間であった。

ちなみに、スハノワ校長はペルミで日本語能力試験を実施するため精力的に尽力し、遂に2012年、実現した。私はペルミのようなあまり特長のない地方都市で日本語能力試験を実施するなど不可能と思っていたので、スハノワ校長の行動力に舌を巻いた。スハノワ校長のように日本語教育に理解を持ち、そのために、積極的に活動する人がいると日本語教育は栄える。

エカテリンブルグではウラル連邦大学で選択科目として日本語が教えられている。特筆に値するのは、数人の行動的、積極的な面々が日本語教育を支えていたことである。その点はペルミと共通している。彼らはいくつかの私塾を運営し、学生を募っていた。

私はそれまでの専門家に倣って、これらの地方都市に順番に出張した。授業見学、デモ授業、教授法に関する講演(類義語分析、CEFR、ネイティブ/ノンネイティブ)、日本文化に関する講演(オタク文化考)といった「出し物」の中から、出張期間に応じて、適宜ピックアップした。講演を実施する都市は、相互に隔絶しているので、内容がかぶることを心配する必要はなかった。

数多くの都市があるので、各都市への訪問の回数はとても少なくなった。ただ、それは出張しないことの理由にはならないと思った。

3年間に出張した都市を以下にまとめる。ロシア以外の都市は、国名を( )の中に入れた。出張をした都市の数は東京を含めると41。モスクワに行くまで聞いたことのないような都市にもたくさん行った。

10年11月リャザン

10年12月オレンブルグとサンクトペテルブルグ

11年1月エレバンアルメニア

11年2月クラスノダールとクラスノヤルスク

11年3月エカテリンブルグとノボシビルスクとリャザン

11年4月イルクーツクとニジニノブゴロドとリャザン

11年5月リャザンとロトストフナダヌ

11年5月東京

11年9月エレバンアルメニア)とサンクトペテルブルグ

11年11月ペルミ

11年12月カザンとニジニノブゴロド

12年2月アストラハン

12年3月ノボシビルスク

12年4月ニジニノブゴロドとリャザン

12年5月クラスノヤルスクとリャザン

12年9月エレバンアルメニア)とピャチゴルスク

12年10月エカテリンブルグとトビリシジョージア

12年11月オレンブルグ

12年12月カザンとペルミ

13年1月キシナウ(モルドバ

13年2月チェリャビンスクヤクーツク

13年3月アシガバット(トゥルクメニスタン)とノボシビルスク

13年4月ニジニノブゴロド

13年5月リャザンとサラトフ

 大学の開講期間にできるだけ多く訪問するため、1か月に3回出張に出かけたこともあった。

私が所属したモスクワ大学では授業についてこられない学生は簡単に落第させられた。授業を始めて数週間経ち、ようやく学生と気心が通じてきたな、と思っていると学生の一人が急に来なくなる。「あの子はどうしたの」と聞くと「別の大学に行きました」との答えが返ってくる。60人入学して卒業するのは40人と聞いた。最優秀の学生を集め、詰め込めるだけ詰め込んで、ついてこられなければ、追い出す。ある意味公平でわかりやすい。

 地方の大学では反対のことが起きるらしい。日本人の先生が成績の悪い学生を落第させることにした。ところが学科長に呼び出されて、差し障りがあるのでやめてほしいと言われた。

あまたにわたる出張の中で、忘れられないのは、2011年3月下旬、東北大震災直後の出張である。家族の中で自分だけ、安全なところにいても全然嬉しくなかった。ホテルに帰ると、ネットで日本の新聞やテレビニュースをチェックし、家族のいる東京が「まだ」無事であることを確認した。原子炉が爆発する映像に衝撃を受けた。また、東京から来た東京海洋大学の池田玲子教授から聞いた戦時下のような成田空港の様子に驚嘆した。東京に残る駐在員と避難するその家族の間で至る所で愁嘆場が繰り広げられていた。不安にさいなまれながらの出張であった。