台湾での仕事

 台湾の勤務は1990年から1992年まで。生まれて初めての海外生活だった。私は台北日本語学校、東橋日語で教務主任をした。私の妻も同じ学校で日本語を教えた。東橋日語は補習班と呼ばれる塾で、学校法人による経営ではなかった。東橋日語は東京都北区のある東京外語学園日本語学校が学生募集のために運営していた。

 台湾は日本語教師が職業として成り立つ例外的な国で、日本人男性が家族を養うために日本語を教えていた。彼らは教授法などについて特別の訓練を受けていない素人の集団だった。しかし、彼らの多くは長年の経験を持ち、彼らなりの教え方を確立していた。また、台湾の日本語教育を最前線で担っているというプライドも持っていた。使用教材は『日本語の基礎』。学習者が単一国籍なので、媒介語として中国語を使うことができた。初級の最初に、ひらがな、カタカナを集中的に教え、読み書きができるようになったところで第1課から教科書の順番通りに読み書き中心に教えた。Speech Primacyもへったくれもなかった。漢字は中国人相手だから付加的な扱いで良い。

 私は若かったし、初めての外国で張り切り過ぎていた。口頭練習中心の教え方を広めようとする熱意がやや上滑りし、一部の教員には嫌われた。連戦錬磨の鬼軍曹たちの集団の真ん中に士官学校を出たばかりの将校がパラシュート降下し、指揮を取ろうとしても受け入れられるわけがなかった。台湾での経験は後の業務の教訓となった。私が赴任したころの台北は街中で地下鉄の工事をしていて交通渋滞がひどかった。70歳以上の人たちが日本語で教育を受けた世代で、ネイティブ並みの日本語を話した。私の娘が病気になった時連れて行った医者もおじいちゃんで日本語をふつうに話す人だった。

 帰国してから10年後台湾を訪ねたら、地下鉄が全部できていて移動がとても便利になっていた。あの、アナーキーでエネルギッシュな台湾人たちが地下鉄の駅へ降りるエスカレーターで左側を空けて右一列に並んでいるのを見てとてもびっくりした。