日本での仕事

 大学を卒業してから10年近く塾で教えていた。もっとチャレンジングな仕事をしたいという気持ちは日々に強まり、悶々として楽しまなかった。

 そのようなときに高校時代の後輩から外国人に日本語を教えてみないかと誘われた。1986年のことである。後輩が勤務していたのは千駄ヶ谷日本語教育研究所。民間の日本語学校は長沼スクールのほか都内に数校しかなかった時代である。仕事を聞かれて「外国人に日本語を教えている」と答えても、いちばん頻繁に返ってきた反応は「?」。もっと長い文で説明する必要があった。日本語教育の今日の隆盛など想像だにできなかった。

 私は塾で英語を教えていたので日本語の語彙、文法などについての知識は持っていなかった。また、直接法的に教える指導技術も習得していなかった。当時の私の無知さ加減の例を次にあげる。私は動詞の活用を調べた。そして、「書きます」(五段動詞)と「来ます」(サ変動詞)では活用形のパターンが違うことを「発見」した!そして私は自分の「発見」を得意げに同僚に話した!

 私は必要に駆られ、猛然と勉強した。私の睡眠時間は3、4時間になった。そして、ネイティブの母語についての暗黙知を次々に顕在知に変えていった。しかし、私の努力は「焼け石に水」であった。私は専任として雇用された。専任は50分の授業32コマ、夜の授業1時間と1.5時間、早朝の出張レッスン1時間を担当することになっていた。かなりハードなスケジュールだったが、若かったし、比較ができなかったので、日本語学校はどこもそんなものかと思っていた。

 週日の睡眠時間は3、4時間になった。週末はどこにも出かけず授業の準備に専念した。それでも授業の準備は全く間に合わなかった。1コマの授業を準備するのに最低でも3、4時間はかかった。初級の教室では、教員と学習者の間に共通の言葉がない。だから、直接法の授業では使用する語彙、文型、発話、指導手順などを厳密にコントロールするため事前に分刻みの教案を作る必要がある。授業中の一挙手一投足を事前に考えておくのである。そして授業中はteacher talkを用いて学習者とコミュニケーションする。Teacher talkにおいては、学習者との対話を通して、その人の日本語レベルを素早く判断し、謂わば、予定調和的に相手のレベルに合わせた言葉遣いをする。Teacher talkができるためには経験が必要である。しかし、私には経験がなかった。私はどのような言葉遣いをすれば相手に分かってもらえるかの基準を全く持ち合わせていなかった。それで、教科書の語彙リストを参照することにした。例えば、20課を学習する場合、説明に使う言葉と文型は20課までに限定しようとした。これは駆け出しの日本語教師には絶望的に難しかった。

 この時代には忘れられない失敗のエピソードがいくつかある。

 語彙コントロールの必要性はなにも初級に限ったことではない。中級、上級においてもなくてはならないものだ。やはり駆け出しの頃、上級の学習者がAという言葉がわからないと言った。それで私はBと言い換えた。ところが彼はBもわからない。それで苦し紛れにCと言い換える。それもわからない。結局彼は言う。「いいです。後で辞書を見ます。」

 時間がなくて授業の途中までしか教案を準備できなかったことがある。その時は足におもりを付けられて、崖の中腹に垂らされたロープにぶら下がっている気分だった。授業を進めるにつれ、ロープの終わりが迫ってくる。後は奈落の底。なるべくゆっくり授業を進めるがズル、ズルッと…

 ある夜、中途半端ながらも授業の準備を終わらせ、夜半過ぎに寝た。そうしたら夢を見た。私は教室で学生たちの前に立っている。でも話すことがない。学生たちは私を冷たい目で見ている。私の背中を冷汗が一筋、二筋流れる…というところで目が覚めた。目が覚めるともう二度と眠れない。私は授業の準備を再開し、そのまま学校へ行った。

 私の見た夢は正夢となった。私はある朝、20人のクラスの授業に入った。授業の準備は、まあまあできており、私は自信を持って授業を始めた。ところが教室がざわつく。異変を感じて授業を止め、学生に説明を求める。すると一人の学生が遠慮がちに「先生、そこはもうやりました。今日は8課からです。」と教えてくれた。連絡ミスで私は違うところを準備していた。この時点で血の気が引き、目の前が真っ暗になった。急いで8課を見る。8課の教授項目は受身だった!受身は「食べる→食べられる」などの複雑な活用、「海に囲まれる」など中立的なもの、「悪口を書かれる」など被害の含意を持つものなど教授項目が多岐にわたるので30年以上の教授経験を持つ今の私でも事前の準備は欠かせない。当時の私には対応できるわけがなかった。どういう対応をしたかについての記憶は飛んでいる。たぶん教壇で3コマ分死んだふりをしていたのだろう。

 その後、数か月すると授業の準備が楽になってきた。前と同じように一所懸命授業の準備を続けているのだが、ふと我に返ると切羽詰まった感じがやや軽減しているのに気付く。たくさんの授業を入れられ、最初はたいへんだったが、苦労を切り抜けるのも早かった。

台湾での仕事

 台湾の勤務は1990年から1992年まで。生まれて初めての海外生活だった。私は台北日本語学校、東橋日語で教務主任をした。私の妻も同じ学校で日本語を教えた。東橋日語は補習班と呼ばれる塾で、学校法人による経営ではなかった。東橋日語は東京都北区のある東京外語学園日本語学校が学生募集のために運営していた。

 台湾は日本語教師が職業として成り立つ例外的な国で、日本人男性が家族を養うために日本語を教えていた。彼らは教授法などについて特別の訓練を受けていない素人の集団だった。しかし、彼らの多くは長年の経験を持ち、彼らなりの教え方を確立していた。また、台湾の日本語教育を最前線で担っているというプライドも持っていた。使用教材は『日本語の基礎』。学習者が単一国籍なので、媒介語として中国語を使うことができた。初級の最初に、ひらがな、カタカナを集中的に教え、読み書きができるようになったところで第1課から教科書の順番通りに読み書き中心に教えた。Speech Primacyもへったくれもなかった。漢字は中国人相手だから付加的な扱いで良い。

 私は若かったし、初めての外国で張り切り過ぎていた。口頭練習中心の教え方を広めようとする熱意がやや上滑りし、一部の教員には嫌われた。連戦錬磨の鬼軍曹たちの集団の真ん中に士官学校を出たばかりの将校がパラシュート降下し、指揮を取ろうとしても受け入れられるわけがなかった。台湾での経験は後の業務の教訓となった。私が赴任したころの台北は街中で地下鉄の工事をしていて交通渋滞がひどかった。70歳以上の人たちが日本語で教育を受けた世代で、ネイティブ並みの日本語を話した。私の娘が病気になった時連れて行った医者もおじいちゃんで日本語をふつうに話す人だった。

 帰国してから10年後台湾を訪ねたら、地下鉄が全部できていて移動がとても便利になっていた。あの、アナーキーでエネルギッシュな台湾人たちが地下鉄の駅へ降りるエスカレーターで左側を空けて右一列に並んでいるのを見てとてもびっくりした。

パプアニューギニアでの仕事

 パプアニューギニアPNG)への赴任は1992年から1994年まで。JICA専門家として、首都ポートモレスビーから40キロ離れたジャングルの中にあるソゲリ国立高校に日本語教師として赴任した。

 熱帯への赴任と聞いて、プールサイドのデッキチェアに横たわり、指を鳴らしてウェイターを呼び、ジントニックのおかわりを注文しているところを妄想したが、実際のパプアニューギニアはたいへん治安が悪いうえ、マラリアの跋扈(ばっこ)する瘴癘(しょうれい)の地でもある。しかも特筆すべき娯楽もなく、自分で何かを見出さなければ退屈なことこの上ない。

 PNGの社会文化は日本のそれと比べ、「異文化性」が極大である。だから、PNGで生活する日本人たちにこの国の社会と文化は強烈な印象を与える。多くのPNG経験者は、それまでの人生をPNGでの生活とそれ以外に分けて考えるのではないか。筆者は海外7か国で生活したが、PNGでの2年にわたる経験は筆者の人生の中で聳立(しょうりつ)している。

 普通の人に2年PNGに行ってました、と言っても、「ああ、そうですか」と特に反応はないが、JICAの人に同じことを言うと、PNGのたいへんさをよく知っているので、「ああ、それはどうもご苦労様でしたあ。」と、ムショ帰りのヤクザのように労われる。

 

  筆者はパプアニューギニア日本語教育に関し、次の本を出版した。

 『パプアニューギニア日本語教育:40年の軌跡とその意義』

 荒川友幸、長岡康雅、西村祐二郎 編著

 デザインエッグ社 ¥2420

韓国での仕事

 韓国で仕事をしたのは1995年。高麗大学商学部でつなぎの講師として半年ほど赴任した。日本に帰ってうちに着き、テレビをつけたら江南のデパートが崩壊したというニュースをやっていた。もし、私がその日に帰国せず、まだソウルに滞在していたら、家族はとても心配しただろうと思った。このころは、まだ携帯電話もなく、インターネットもそれほど機能していなかったので、何かがあっても東京からすぐに私に連絡をとる、ということはできなかった。

ブルネイでの仕事

 ブルネイにいたのは1995年から1999年まで。国際交流基金派遣の日本語教育専門家として在ブルネイ日本国大使館付属日本語講座の運営を任された。日本大使館の1室を執務室としてもらい、そこで授業の準備などの業務をした。大使館講座の授業は夜7時から9時まで。勤労者や大学生などいろいろな人たちが集まった。

 その後赴任したエジプト、カイロにも大使館講座はあった。これらの講座は資金の流れに問題があるという理由で順次閉鎖された。

 私は単身赴任だったので学生たちと友達になり、うちでパーティーをしたり、みんなで遊びに出かけたりした。独身時代に戻ったように自由を謳歌した。

 日本語講座の専任は私だけで、それだけでは教員が足りないので在留邦人で志のある人にボランティアとして来てもらった。その人たちに若干の謝礼を払った。私がもらう月300ドルほどの業務費では足りず、学生が増えれば増えるほど私の持ち出しが増えるというやや残念な状況になった。

 私は、ブルネイ在勤時代に電子メールを使い始めたが、基金本部との連絡手段は国際電話だけだった。国際電話の料金は高額なので、その使用は重大な場合のみに限定されていた。ちなみに、この時代、基金本部への報告は1年に1度の年次報告のみで、ほとんど「野放し状態」だった。もちろん、だからといって仕事の手抜きはしなかった。その後、基金でもインターネットが利用されるようになると、四半期ごとの定期報告と1年ごとの年次報告の提出が義務化された。私がブルネイに勤務したのはインターネット普及直前の牧歌的な時代であった。

エジプトでの仕事

 エジプトにいたのは2000年から2003年まで。日本語専門家として国際交流基金カイロ事務所で働いた。事務所付きの専門家としてエジプト及び近隣国の日本語教育の活性化支援に従事した。そのため、周辺国に出張を繰り返した。出張した国は、モロッコチュニジア、ヨルダン、シリア、イエメン、トルコ、バハレーン、イラン。中近東と一括りにされる国々であるが、実はそれぞれの国が強い個性を持っていることを知った。

 これらの国の日本語学習者を招待してカイロで弁論大会を開いたことがある。その折のアトラクションで参加者をピラミッドに連れて行った。参加者の多くの母語アラビア語だが、トルコ、イランの参加者はアラビア語を話さない。だから、これらの国と他国の参加者のコミュニケーションの媒体は日本語になる。

 若い者同士、すぐに打ち解け仲良くなる。エジプトの参加者がトルコの参加者に「ねえ、こっちに来て!いっしょに写真を撮ろう!」と叫ぶ傍らで、日本人観光客が目を白黒させているのが面白かった。

 

カザフスタンでの仕事

 カザフスタン国アルマティ市で仕事をしたのは2004年から2007年まで。国際交流基金とJICAが共同で運営するカザフスタン日本人材開発センターの日本語教育部門を統括した。

 ここでの一番大きい仕事は首都のアスタナで日本語教育講座を立ち上げたこと。場所の選定、教員の募集、カリキュラムの決定など、完全なゼロからの立ち上げでとても大変だったが、やりがいがあった。