パプアニューギニア恐怖の初夜


 私がパプアニューギニアPNG)に赴任したのは1992年7月のことである。赴任先はソゲリ国立高校。ソゲリ高校は、PNGの首都ポートモレスビーから東へ40kmほど行ったジャングルの中のソゲリ村にある全寮制の高校である。

 初めてPNGに行かないかという話を聞いたときには、椰子の木の下、白砂のビーチの上のデッキチェアに寝そべり、ジントニックを舐める、てなリゾートを想像したが、調べてみるとPNGはかなり危ないところだった。マラリア猖獗(しょうけつ)の地である上、治安は最悪、強盗、殺人などの凶悪犯罪が日本の10倍も発生している(在PNG日本大使館HP、住んだ実感では10倍どころではない)。私は、マラリア(特に劇症の熱帯熱マラリア)のあるなしで、人の幸不幸が決まってしまうと思う。マラリアはそれほどつらく、ひどい病気だ。感染はしばしば、あっという間の苦しい死をもたらす。しかも、首都のポートモレスビーでさえ数分歩くと商店街が終わってしまうようなところで、街っ子の私としては退屈なことこの上ない。わかればわかるほどPNGはとんでもないところだと思うようになった。

 成田からまずケアンズへ向かう。新婚さんに囲まれた7,8時間のフライトであった。ケアンズの空港で8時間ほど待ち、ポートモレスビー行きの小さな飛行機に乗る。客は、縮れ毛、顔の真ん中に福笑いみたいな大きな鼻が鎮座ましますPNG人たくさんと少しのオーストラリア人と私。私は唯一の東洋人だから目立つ。

 数時間後、ポートモレスビーのジャクソンズ国際空港到着。飛行機に横付けられたタラップを降り、ターミナルへ向かう。ターミナルと言っても平屋のバラックで、冷房も入っていない。ケアンズの空港との落差にショックを受ける。

 外へ出ると、事務所のローカルスタッフが来ていた。いっしょに外へ出る。外には、百人以上の黒人がたむろしている。みな所在なげだが、私に向ける視線は一様に鋭い。その上、腋臭とビーテルナッツの入り混じったえもいわれぬ悪臭がふきつけてくる。後でわかったことだが、そのとき鋭いと思った視線は実は彼らにとっては普通で、別に私に対して強い敵意を表していたわけではない。ただ、それを知らないとかなりこわい。とんでもないところへ来てしまったといよいよ思う。

 トヨタの大型4WD「ランドクルーザー」に乗る。はじめの10分ほどは市街地の中を通る。真っ青な空と強烈な日差しの下、原色の黄、赤、緑などに塗られた建物があり、熱帯の異郷に来た感慨に浸る。だがまもなく多くの建物が高さ2m以上の金属性の板に囲まれていることに気づく。そしてその上には有刺鉄線。直線的なものでなく、戦争映画で出てくるコイル状のもの。切っても体にまとわり付くのでこっちのほうが防御性が高い。さらに不安になる。別に騙されて連れてこられたわけではない。十分に情報を与えられ、くれぐれも気をつけてと言われて送り出されたのだが、それでも、見ると聞くとでは大違い。言葉を失う。

 道はそれからサバンナに入る。草原のところどころに乾燥に強いユーカリの木が生えている。ユーカリの葉はまるでドライヤーでも当てられたかのようにチリチリしている。サバンナの中を20分ほど進むと目の前に4,5百メートルの高さの岩塊が現れる。道はここにカミナリ状に刻まれ、一気に頂上へ登る。そこからは緩やかな下り坂が続き、15分ほど行くと深い緑色の川が現れる。道はそこを渡る。車一台がやっと渡れるほどの細い石の橋。川の両端には椰子の木が茂り、一瞬、ディズニーランドの冒険の国のようだと思う。

 川を越えたあたりから植生が一気に変わる。鬱蒼と木の生い茂るジャングル。その中を私を乗せたランクルが進む。ジャングルの中を10分ほど行くと舗装路が尽きる。そこに私が赴任するパプアニューギニア国立ソゲリ高校があった。

 職員用住宅はキャンパスの一角にある。私の住まいは高床式の2軒長屋。後で知ったことだが隣はオーストラリア人の生物教師夫婦が住んでいた。ランクルはその前で止まる。そして、2つのスーツケースを降ろし、「じゃあ。」と言ってみんないなくなる。

ランクルが小さな砂埃を残して去っていく。私は、2つの大きなスーツケースの間に呆然として突っ立っている。「さあ、これからどうしようか?」

いつまで突っ立っていてもしかたがないので、気を取り直して、家へと歩く。敷地はハイビスカスの木に囲まれている。真っ赤な花があちこちに咲いている。そこにルリアゲハという美しい蝶が飛び交っている。ルリアゲハはモンシロチョウの3倍くらいある大きな蝶で、羽根の色はコバルトブルー、それが黒く縁取られている。熱帯の強烈な太陽光の下できらきら輝き、美しいことこの上ない。

スーツケースを運びながら、「もし、目隠しされ、注射をされて気を失ったままここに運ばれてきたとしても、目が覚めたとたん、ここは絶対に日本じゃないとわかるな。」などと愚かなことを考える。

ドアを開け、2つのスーツケースを担ぎ込む。スーツケースを開けようという気にもなれない。再び「これからどうしようか。」と考えながら、ソファに座り込んでしまう。そのまま動けなくなる。時間は本当にゆっくりと流れる。疲れと緊張で何をする気にもなれない。日本から持ってきた本を手に取るが、開きもせずにテーブルの上に置く。テレビをつけると入るのは地元のEMTVとオーストラリア、クイーンズランド州のQTVの2局だけ。やっているのは、牧羊犬がどれだけ早く羊を枠の中に追い込めるかのコンテストとか、ルールのまったくわからないオージーボールとかいう球技で見る気にもなれずすぐに消す。何もせず、ただ座っていると、時間の流れのなんと遅いことか。外へ行こう、散歩してみようと思うのだが、事情もわからないまま歩き回れば襲われるんじゃないかと恐怖が先にたって、これも結局あきらめる。

 腹はぜんぜん減っていないが、夕方になったので時間をつぶすために食事を取ろうと思い立つ。ところが冷蔵庫の中は空っぽ。「おいおい、こんな山の中に連れてきて、どこに何があるかも教えないままほっぽりだすなんて、それはないんじゃないか?」ととうとう半べそになる。やっと台所に魚の缶詰があるのを見つけ、それを開ける。これひとつが夕食。それから、ようやく暗くなり、時間の際限ない長さをもてあましたまま、じっと耐え続ける。日が暮れてしばらくすると漆黒。外では、目の前で手を振っても見えないほどだ。午後9時ごろせまいベッドに入る。でも、もちろんぜんぜん眠れない。輾転反側。ベッドに横になってもひたすら耐えるのみ。

 ベッドは窓のそばにあった。窓は、6,7枚の板ガラスがブラインドのようになっているもの。ブラインドと同じように板ガラスを開いたり閉じたりできる。これは熱帯ではよく見られる。

 いつまで経っても目は冴えている。不安で押しつぶされそうになる。どのくらい時間がたったろうか?突然、闇の彼方から太鼓の音が沸き起こった。もちろん、日本の夏祭りのなつかしい太鼓の音ではない。ターザン映画にでも出てきそうなあれ。その音がだんだん近づいてくる。私は毛布をかぶった。そして、「私はいません。私はここにいませんよ。」と念じた。恐怖に打ち震えたが、全てが非現実的だった。まるでハリウッド映画かなにかで起きることのようで、その状況の真只中にいながら、そんなことが自分に起きていることが信じられなかった。私はPNGなんかに来たことを後悔した。後悔してももう遅すぎる。

 はじめての岩登りで30mほどの岩場を登った。最初の20mは順調で私は夢中になって登った。そこから急に難しくなった。手足をかける岩のでっぱりがとても小さくなり、初心者の私には見つけることができない。私は地上から20mの高さの崖の上で、1cmくらいの岩のでっぱりに足を置いたまま身動きができなくなった。よせばいいのに、その時、思わず下を見てしまった。そして、「ああ、こんなところに来なければよかった。」と激しく後悔した。後で考えると笑ってしまう。ビルの7階くらい高さの崖の上で、疲れで足がぶるぶる震えだし、もういつ落ちるかわからない状況で後悔するのはいかにも遅すぎる。もう少し早くなんとかすればよかったのに!

 私は同じ失敗をPNGで繰り返したわけだ。

 この話には後日談がある。ソゲリ高校には「シンシン」という「文化祭」があり、PNG各地からやってきている学生たちが出身部族の踊りを踊ってみせる。私がPNGに来た晩、私の魂を恐怖で凍りつかせた太鼓の音の元は、実は何のことはない「シンシン」のため練習をしていたソゲリ高校の学生たちであった。