ここはカイロじゃない!

 カイロからヨルダンのアンマンとシリアのダマスカス、アレッポに出張したことがある。
 ヨルダンではヨルダン大学、シリアではダマスカス大学とアレッポ大学の日本語教育機関を訪ねた。
 だまされないよう、ぼられないよう、いつもぴりぴりしていなければならないカイロから行くと、人も街もとても静かで、ゆったりしたのんびりした気分になった。
 特にアレッポは、十字軍の城を中心に広がる美しい街であった。ここから私はカイロに帰ることになっていた。
 予約した飛行機はエジプト航空のカイロ直行便。約2時間のフライトのはずであった。午後7時過ぎにアレッポを出発。1時間ちょっと飛ぶと飛行機はもう着陸態勢に入った。ずいぶん早いなと思って窓の外を見た。夜でもナイル川は見えるはずだったが見えない。アレッポのほうから来ると着陸する方向が違うのかなとそのときは何も思わなかった。
 それから間もなく飛行機は着陸し、あー、うちに帰ってきた、と私はほっとした。
 飛行機がターミナルのほうへtaxiingしていくと、窓からイラク航空の半分スクラップになった飛行機が見えた。湾岸戦争のとき、破壊を避けるために外国に送られそのままになってしまった飛行機だ。私はこの飛行機を数日前ヨルダンの首都アンマンで見た。ありゃりゃ、イラク航空の飛行機はカイロにもあったのか、何度も通ってるのに今まで気付かなかったなあ、と私は本当に天真爛漫。カイロに着いたことを信じて疑わない。
 さらに、カイロ空港では、「ローカル線」は外に駐機してタラップで降りるのに、このときはターミナルに直付けでジャバラが伸びてきた。
 ありゃりゃ、カイロ空港もリノベーションか、とまだ私は気付かない。
 飛行機のドアが開き、やあ着いた、と飛行機を降り、しばらく歩くと、そこに…アンマン銀行の両替所がある!
 これでさすがの私も気付いた、ここはカイロじゃない!!
 どういうわけだか知らないが、カイロ直行のはずの飛行機がアンマン経由になっていたのだ!
 さて、それからの私の行動がまた本当におかしい。さっさと飛行機へ戻ればいいものを先へ行ってしまった。
 イミグレのところまで来るとその向うにエジプト航空のオフィスが見える。何を言ったか覚えていないが、イミグレの担当官に何か言ったら、簡単に通してくれた。
 これで私は担当官の承認の下、ヨルダンに立派に不法入国することになった。
 エジプト航空のカウンターに行った。そこには初老の男がいた。事情を説明すると、そいつはびっくりして、「どうしておまえはここにいるんだ!」と叫んだ。
 私もよくわからないが、私はそこにいた。
 その男は、「とにかく来い」と言って、歩き出した。私ももちろん後に従った。彼はイミグレの係官に何かを言った。それでそこもフリーパス。ちょっと歩いて無事、元の飛行機に乗り込んだ。
 エジプト航空の男は、「アンマン経由に変更されたとアナウンスがあったはずだ」と強硬に主張したが、私も「いや絶対になかった」と言い張った。だって本当になかったんだから。きっと、そのアナウンス、アラビア語でやっちゃったんだ。そんなローカル線にはアラビア語がわからないヤツなんか乗ってないと思ったんだ。
 カイロでは運転手が、私を待って、待ちくたびれていた。それでもちゃんと待っていてくれた。

寝坊して飛行機の乗り遅れる!

 

バハレーン大学の女子学生たち

 

 エジプトからイランに出張しての帰り、トランジットでバハレーンに1泊した。最後の夜ということでバハレーン大学の日本人教員と酒を飲み、酔っ払ってホテルに帰って寝た。
 翌朝、起きると10時20分。フライトは11時20分だからあと1時間しかない!大慌てで飛び起き、荷物を持って部屋を飛び出した。幸いにも荷物は前日パック済みで、しかもガラガラ1個。

 フロントに走り、チェックアウト。わけを話すと、「がってん、承知のすけ!」という感じでてきぱきと車を手配してくれ、その車で空港に向かった。ここまでで10分。残り時間は50分。

 バハレーンは狭いところだからホテルから空港までも車で20分かからない。だから、ガルフエアのカウンターに走りこんだときの残り時間は30分。

 だめと言われるかと思ったが、係員はのんびりと手続きする。ボーディンパスをもらい、一安心。

 それでも急いでイミグレを通過し、何番ゲートかと思ってボーディンパスを見ると書いてない。おかしいなと思って、案内板を見ると、表示されているのは午前8時台、9時台のフライトばかり。
 ここらへんでもう気付いてもよさそうなものだが、私はまだまったくわけがわからなかった。何か問題があってフライトがみんな遅れているのだと勝手に解釈した。しかし、出発時間が過ぎても、私の乗るフライトの情報が表示されない。さすがにおかしいと思った。
 そのとき、大きな時計が目に入った。そして、その時計が表示する時間は午前8時30分だった!
 私は狐につままれたような気分だった。いったいどうして???
 それから、徐々に謎が解けてきた。テヘランとバハレーンの時差は1時間半である。 テヘランからバハレーンに来た場合、時計を1時間半、遅らせなければならない。ところが、私は勘違いして、バハレーンに着いたとき、テヘラン時間を表示している時計をさらに1時間半進めてしまった。だから、私の時計はバハレーン時間より+3時間進んでしまった。
 つまり、私が目を覚ましたのはバハレーン時間で午前7時20分。11時20分の飛行機には、十分すぎるほどのゆとりがあった。
 なああんだ、と思って、ひとり苦笑い。それから急にホテルの冷蔵庫の中に、朝食にと思って、ヨーグルトや牛乳などを買って入れておいたことを思い出した。
 私が時間を間違えて、ホテルの従業員の誰かをちょっとだけ幸せにしたわけだ。

イラン国立博物館

 イランのテヘランに出張したとき、心に残ることがある。

 ペルセポリスの展示が充実している国立博物館を時間の都合をつけてぜひ訪問したいと思った。イランに来ることは二度とないと思ったからだ。ところが、時間が取れず、結局、訪問を諦めた。

 私はイラン滞在の最終日、国立博物館に行った。そして、博物館の外壁に軽く触って、空港へ向かった。「触るるを以って命とす」

フライトがない!

 エジプトに赴任していたとき、ほぼ2年ぶりで日本に一時帰国することになった。フライトはルフトハンザ。フランクフルト経由で東京へ帰るようになっていた。カイロは朝4時発。私は午前2時過ぎに空港に来た。
 航空会社のカウンターの入口でチケットを見せると係員がそれを凝視し、ちょっと上ずった声で言った。「どうしてこのキップを持っているんだ?このフライトは1ヶ月も前にキャンセルされたぞ!」
 「どうして持ってる?」と言われたって困る。旅行会社からもらっただけだ。係員は言った。「ルフトハンザの担当者が午前4時に来ることになっているから待っていてくれ。」
 仕方なく2時間待った。そして午前4時、担当者が来た。私と同じようにキャンセルされたフライトの航空券を持った客が数名集まった。
 私も猛然と抗議した。そうしたら、この担当者が「ちょっと待て」と言って、あちこちに猛烈な勢いで電話をかけ始めた。しばらくして、まだ電話しながら私のほうを見て、にやっと笑う。何かいいニュースか?
 彼は電話を切り、それからこう言った。「あなたは日本へ帰れる。いいか。まず、ここからアリタリアでミラノへ行け。そして、ミラノでまたアリタリアに乗ってフランクフルトへ行け。それでフランクフルト発のルフトハンザ東京行きに間に合う。ただし、ミラノでのトランジットは30分しかないから急げ。ここでもアリタリアのフライトまであと40分しかないから急いでくれ。荷物は?」
 荷物を預け、私は大慌てでイミグレを通過、アリタリアのフライトに乗った。
 ミラノでは飛行機はターミナルに直接横付けするのではなく、外に駐機した。乗客はタラップを降り、バスに乗せられた。ミラノはマイナス5度で、そんなことになると予想していなかったシャツ1枚の私は震え上がった。
 それから、はじめて来た空港で、フランクフルト行きの飛行機を探して、私は走った、走った、走った。
 私が乗り口にようやく着いたときにはその飛行機はまさに出発しようとしていた。係員に急かされ、飛行機に飛び乗る。私の背中で扉が閉められた。フランクフルトでは十分なトランジットの時間があるので、私はようやく安心して座席に体を埋めた。
 とんでもない日だった。私はカイロで日本へ帰るのをあきらめかけ、次にはミラノで、また同じことを考えた。

 一人で旅をしていても、ふつうはすべてスムーズにことが運ぶ。でも、たまにはこういうことがある。

 

マルワ

 エジプトでは、本来の仕事のほか、週に一度ある大学の外国語学部日本語学科に出講していた。

 その学部はエジプトの大学の中で最難関の一つで、特に日本語学科は、その中でも一番難しかった。だから、そこで日本語を学ぶ学生は文科系ではエジプトのthe cream of the creamで、みんなとてもまじめに勉強した。

 でも、中には問題のある子もいた。例えば、マルワ(仮名)。最初は、もう一人の子とつるんで、私の授業のとき、ずっとおしゃべりをしていた。また、私のことをばかにしているようなそぶりも垣間見えた。

 見かねて、きびしく注意したら、それからすっかり態度が改まった。この子達はまだ人間的に未成熟で、自らを自らの力だけできちんと律することができない。どこまでやれば私が怒るか、私を試した。教師が怒らなければ、問題行動はもっとエスカレートしただろう。

 でも、私はきっちりとタガをはめた。すると、その中で安心して、まじめにふるまうようになった。

 それでも、マルワは感情の起伏が激しく、やや扱いにくい子だった。対応にはかなり気を使った。彼女の親は、彼女に対して厳しすぎたか、甘やかしすぎたか、どちらかだろうと思った。

 私が担当していたのは作文だった。毎回、テーマを与え、それについて書かせて添削して返す。返すとき、子供っぽいかとは思ったが、優秀なものには、日本の小学校などで使う「よくできました」のスタンプを押した。

ある日、作文を返した後、マルワが私のところに来た。「先生、私の作文は間違いが少ない。『よくできました』をもらったリハームより少ない。それなのにどうして『よくできました』がもらえないの?」

 それで私が説明した。「いいかい、マルワ、おまえの作文は私がお手本として渡した作文とほとんど同じじゃないか。ただ、ちょっとことばを変えただけ。それじゃあだめなんだよ。お手本を参考にして、自分で考えて、自分の作文を書いてごらん。」

 そう説明すると、マルワは「わかった」と言って自分の席に戻っていった。

 そのとき私は教卓で別の仕事をしており、机の上に目を落とした。それからちょっとして目を上げると、マルワが泣いていた。そして、隣の子がマルワを慰めていた。

 私はびっくりした。「よくできました」がもらえなかったと言って、日本の大学生が泣くか?

 次に作文の課題を提出したとき、マルワは言われたように自分で考えて作文を書いてきた。あまり上手ではなかったけれど、まあいいか、と思って「よくできました」のスタンプを押してやった。

 作文を返すとき、マルワはちょっと緊張していた。私が作文を渡すと、「よくできました」のスタンプが押してあるのを見てとてもうれしそうに笑った。そして原稿用紙をひらひらさせながら自分の席に帰った。

 これももう20年以上前のこと。

 

カイロの安食堂

 カイロで仕事をしていたとき、とても面白い男と知り合いになった。名前を仮に佐々木とする。佐々木は、バックパッカーの沈没組で、それまでも世界各地で生活していた。インドネシア語、中国語なども流暢に話した。生活しながら自然習得したらしい。アラビア語もこなしていた。語学の天才だと思った。

 佐々木は、初め日本人バックパッカー御用達の安宿サファリホテルに泊まっていたが、そのうちインババに下宿した。

 この男がある日事務所に来て、うちの近くにチキンのうまい店があるからいっしょに行こうと言う。それで、職場の同僚とエジプトの大学に赴任したばかりの若い女の先生を誘って出かけた。

 インババは、ナイル川西岸の庶民街で、ふつう外国人が出入りするようなところではない。ところが佐々木は家賃を節約するためにこの街を選んだ。外周の道まで車で行き、そこから街の中に歩いて入る。アラブの旧市街は道が狭く、車は入れない。しかも路地が複雑に入り組んでおり、道のわかっている人と行かないとあっという間に迷ってしまう。

 ここもそんなところだった。路地を歩いていくと、カイロ市内だというのに、洋装の人はほとんどいなくなる。男は白の、女は柄物のガラベーヤというアラブの民族衣装を着ている。

 この路地を歩くのは私にはとても面白い体験だった。暑いので、狭い路地の両側の家はみんな窓が開いている。中には、ミシンをかけている女、テレビを見ている男。いろいろな生活が垣間見える。

 歩き始めてほんの数分で子供たちが私たちの後をついて歩き始めた。歩くに連れてその数は20人を超え、さらに増えていった。そのうち、手拍子でリズムをとって地元サッカーチームの応援を始めた。お祭りのような騒ぎになった。

 それまでに1年生活してきたので、カイロが安全な街であることはわかっており、治安面での恐怖はない。ただ、着任したばかりの女の先生を連れてきたのは後悔していた。ここは、彼女たちにはちと刺激が強すぎる…

 私たちは迷路の奥へ奥へと進んだ。子供たちは私たちの後をぞろぞろとついてきた。20分ほど歩いて、いったいどこまで行くのかとやや不安になり始めたころ、路地の奥に小さな広場が見えた。広場といってもひどく殺風景なところで、木の一本も生えているわけではない。廻りはすべてくすんだ茶色の建物で囲まれていた。

 その広場に私たちが目指していたレストランがあった。ふつうのビルの1階の薄汚いところ。みんなでぞろぞろとそちらへ向かって歩く。私たちは住人たちの好奇の目に曝される。

 レストランの中に入ると、ジャリジャリと音がする。何かと思って下を見ると、床には鶏の骨が敷き詰められている。これは意図的にやったことなのか、それとも長年食い散らかされた鶏の骨を床に捨てているうちに自然にそうなったのか?

 だんだんいやな予感がしてきたが、乗りかかった船と思い、席に着く。プラスティックの丸テーブルは安っぽい派手なビニールの「テーブルクロス」で覆われているが、それも薄汚れ、あちこちにタバコの焼け焦げがある。いすもプラスティック。太った人が座ったらあっという間に潰れてしまいそうな安物。

 店を切り盛りしてるのは、中年のオヤジ二人。二人ともご先祖様がカイロ考古学博物館にいそうな、典型的なカイロ辺のエジプト人の顔立ち。真っ黒な、ぶっとい芋虫みたいな口髭を生やしている。

 私の座った席は店の奥に置かれた大きな扇風機からの風が吹き付けてくるので涼しいが、問題はその前で店のオヤジがたまねぎを切っていることだった。目が痛い。涙が止まらない。店は満員で他にテーブルはない。同じテーブルについた誰かに変わってというわけにもいかず、そのまま我慢する。

 チキン、サラダ、アイェーシ(エジプトパン)と紅茶を注文する。まずサラダを男の子が持ってきた。好奇心むき出しで、ニヤニヤしながらサラダを差し出す。ふとその手の平を見ると、大きな擦過傷がある。つい最近の怪我のようで、まだかさぶたもできていない。血が固まっているだけ。これでサラダを食べる気は一気に失せる。女の先生たちもそれを見ていたようで、サラダには口をつけようとしない。佐々木だけが一人でパクパクと食べている。私たちが口をつけようとしないのを見て、怪訝な顔で、「どうして食べないんですか?うまいですよ。」と言う。

 店のオヤジがたまねぎを切り終わる。ほっとした。ところが、扇風機の前にはゴミ箱があり、こんどは生ごみの臭いが私に吹きつけてくる。これは、たまねぎのほうがまだよかったと思う。

 ローストチキンが来た。恐る恐る口に運ぶと、これがうまい。肉の味が違う。水気があり、こくがある。KFCなどよりはるかにうまい。もしかしたら、この広場を走り回っていた鶏をつぶしたのかもしれない。エジプトの鶏は日本よりうまいと思っていたが、特にここの鶏はうまかった。結局これは全部食べた。安物のアイェーシには、よくタバコの吸殻とか、切ったつめとか、いろんなごみが入っていることがあると聞いてきたので、注意しながら食べる。

 紅茶はいつもの黄色いリプトン。エジプト人はPの音がBになってしまうので、みなリブトンと発音する。

 会計を頼むと、一人200円しなかった。都心の半分くらいの値段だった。

 食べ終わると、歩いて車まで帰る。物見高い悪ガキどもがまたぞろぞろとついてくる。

 街への入り口に立って、私たちを待っていた運転手たちがジューススタンドでサトウキビジュースをおごってくれた。それを飲んで私たちは家に帰った。

 この後、女の先生たちは1週間ほど下痢に悩まされたそうだ。着任直後の下痢を日本語では「カイロ腹」という。英語では、 “Welcome bowels(ようこそ下痢)”

 私は着任から1年以上経っていたのでなんともなかった。

N先生

  N先生はロシアを代表する日本学者である。私は、博覧強記の同教授に深い敬意を払った。

 あるとき、私はN先生が行った講義の直後に教室に入った。私の顔を見て、N先生は黒板の日本語を消し始めた。最初はなにも考えなかったが、N先生が困ったような表情を浮かべ、急いで板書を消している様子を見て違和感を持った。その場のコンテキストから、N先生はネイティブの私に自分の板書を見せたくなかったのではないかと思った。日本文化、思想に深い知識と見識を持つN先生のような大御所ですら、ネイティブ・コンプレックスを持っているのかと意外だった。