妻、豹変す

 台湾で私たちは子供を授かった。妻は妊娠8ヶ月まで台湾で過ごした。それから子供を生むために帰国した。

 妻は分娩時に私の立会いを希望していたので、出産予定日前後の2週間私は休暇をとって一時帰国した。ところが、この期間に子供は生まれなかった。私は後ろ髪を引かれる思いだったが、臨月の妻を残して台湾に帰らざるを得なかった。1991年5月5日の日曜日、私は台湾帰任のため、成田空港へ向かった。臨月の妻も母親に付き添われ、私を見送るために空港まで来た。空港でチェックインを終わり、カフェテリアでコーヒーを飲んだ。そして私は、「じゃ、行くぞ」と言って立ち上がった。その途端、いすにかけていた妻が大粒の涙をボロボロと流し始めた。そのまま立ち去ることもできず、私は妻の肩を抱き、慰めた。妻は泣き止まず、ハンカチに顔を埋めている。飛行機の時間ぎりぎりになり、私はやむを得ず、義母に後を頼み、出国管理のブースに通じる階段を駆け降りた。パスポートに出国印をもらい、飛行機の乗り場へ通じる廊下に出る。泣いていた妻がいとおしく、不憫でならなかった。

 廊下の上は吹き抜けになっていて、上の階にはたくさんの見送り客がいた。私は妻の姿を探した。すぐに妻が見つかった。ところが妻の様子がおかしい。両足を大きく広げ、大きなお腹を突き出して、私に向かって必死の形相で両手を振っている。いったい何が起きたのかと思った。私が妻のいるほうに歩み寄ると、財布を取り出し、それを指差して、何か言っている。口の動きを見て、「カード」と言っているとわかった。私が銀行のカードを持って行ってしまったと言っているのだった。「あいつは大丈夫だ」と私は思った。

 日曜日に帰って月曜日から働き始めた。無理に頼んで、次の金土日3日間だけ休みをもらい、再度帰国することにした。その間に子供が生まれればいいと思った。

 ところが、1991年5月7日火曜日、学校で仕事をしていると受付の女の子が、日本から電話がかかっていると言う。急いで電話に出ると義父だった。義父は、「生まれちゃったよ。五体満足。」と言った。私は電話を取り次いでくれた子のところへ行って、「デパートへ行っておいしいチョコレートを買ってあげる」と言った。

 それから金曜日までの数日が長かったこと!金曜日は空港から妻と子のいる築地産院に直行した。初めてみた娘は母の胎内にいたときの自家中毒とかで、顔に赤いぶつぶつがいっぱいできていて正直あんまりきれいじゃなかった。それでも、とにかくうれしかった。

 3日だけいっしょにいて、私はすぐに台湾へ帰った。赤ん坊は2ヶ月になるまで飛行機に乗れない。だから私は7月まで待たなければ親子水入らずの生活ができないのだった。その2ヶ月がまた長かったこと!毎日カレンダーに×をつけて、あと何日と心の中で唱える日が続いた。

 母子が台湾に来た後は怒涛の日々が始まった。妻も同じ学校で働いていたので毎朝大忙しだった。赤ん坊をキャリアに放り込み、ベビーシッターのうちまで走る。その後バス停までまた走る。あの時のことを思い出すとただただ走り回っていた印象しかない。

 月曜から金曜まではベビーシッターに預けられたが、土曜日は預かってもらえない。それで研修などで勤務があるときは学校に娘を連れて行った。凡人社の段ボール箱にバスタオルを敷き、そこに寝ている娘を入れた。目を覚まして泣き出すと受付の女の子が面倒を見てくれた。