買物ごっこ

 海外ではJICAのいろいろな訪日研修のための事前研修で日本語の速習講座の実施を依頼されることがよくあった。速習講座の場合、私は教授項目を「挨拶」「数字」に限定した。「挨拶」の必要性は言わずもがな。「数字」は買物に必要ということで、学習者が自身で積極的に運用できるようになることを目指した。日本に数か月滞在するだけの研修生に必要なのは精々数万までだろうと考え、万の位までを集中的に練習した。

 あるときJICAの中堅公務員の訪日研修のための派遣前の日本語レッスンを依頼された。実際に授業を始めてみると、このクラスは授業がやりにくいことこの上ない。ふつうクラスはある程度の緊張感はあるが、人間関係はカジュアルでリラックスしている。ところがこのクラスは職場のヒエラルキーがそのまま持ち込まれているので、みんな「堅苦しく」ふるまう。冗談を言っても、だれも笑わず、無表情でとにかく反応が悪い。授業を続けながら、背中に冷汗が流れた。

 「なんでこいつらこんなに無反応なんだ⁉」

 壁を相手に授業をするような違和感はその後も続いたが、万の位の学習を終えたところで「買物ごっこ」というゲームを導入した。「買物ごっこ」とは次のようなゲームである。

1.学習者に「お金」(子供銀行券など)を配る。4枚の紙ひとつひとつに自分が売りたい物の絵を描く。そして値段を決める。値段は紙には書かない。口頭で「買い手」に告げる。

2.学習者の半分が売り手、他の半分が買い手になる。買い手は売り手の間を歩き、「お金」のやり取りをしながら、最低3点買い物する。

3.後で買った物と合計の金額を発表する。

4.売り手と買い手の役割を交代する。

 これを導入すると学習者たちはゲームに熱中して、「アメ横」状態が出現する。「まけて?」「まかんない」。紙に書いてあるだけの物を値切っても意味がないのだが、価格交渉は必ず起きる。学習者はゲームに夢中になり、隣のクラスから苦情が来るくらいの大騒ぎになる。

 前述のノリの悪いクラスでも同じように大騒ぎになった。そして、「買物ごっこ」の次の授業で思いがけないことが起きた。授業がやりやすくなったのである。「買物ごっこ」が参加者たちの本音を引き出し、よりリラックスした関係を引き出したのだろう。ただ、「買物ごっこ」は授業の総仕上げといった位置づけなので最後の方に配置してある。だから、授業のやりやすさは長く続かなかった。