型より入りて型より出づる

  狂言演者の野村万作の自伝『太郎冠者を生きる』(白水社1984)を読んだ。伝統芸能の若手育成と日本語教師の養成には共通点がある。

  「謡にしても、狂言のことばにしても、口うつしで一句一句教えられる。もちろん正座で一対一で先生と向かい合い、先生が子供と同じような高い、大きな声で発声すると、それを口真似してゆく。こうして弟子は、正しい姿勢での正座、大きな明晰な発声、正確な息つぎを強調されて少しずつ覚えてゆくのである。」P24

 「私は、父に教わったとおりのつもりで、右手をさした。ところが本番を見ると、父はその場面で左手をさしているではないか。手をさすなどは些細な、それほど大事なことではないかもしれないが、私が父から教わったことを正しいと思って踏襲しても、かんじんの師が違う演技をする。父は非常に自由なところがあり、晩年になればなるほど、われわれに教えたことと違うことをやり出した。…中略…そんな姿を見ていると、年齢によって狂言の演じ方はずいぶん動くものだということを見せられた気がする。カチッとしたことをやる時期もあるだろうし、だんだんそういうものから解きほぐされて、自由に、思うようにやる時代もあるのだろう。」P120, 121

 「「型より入りて型より出づる」ということ。これは非常に合理的な方法である。初心者のときは、師匠に教えられるまま型に入っていけば、大きな失敗はしない。そうして経験を積み、芸の全体になじんできたとき、自分の持ち味を盛り込んで、決められた型から抜け出していく。」

初級レベルの練習はかなりの部分を文型練習(パターンプラクティス)が占める(2022年12月29日付記事「初級レベルの上達」参照)。文型練習は様式化されているので、正に「口うつし」による伝承が成り立つ。

 実際の授業では『太郎冠者を生きる』からの引用を読み合わせ、まずは型にはまってください、私が言う通りにしてください、と伝えた。

 そう伝えると多くの人はそのようにできる。ところが、1クラス20人中1人か2人は全く素っ頓狂なことをやる。にもかかわらず、本人は素っ頓狂なことをやっているとの自覚を持っていない。人の真似ができるということも大切な能力である。